昭和五十四年十月二十八日 朝の御理解


御理解第二十二節

「天地金乃神と云えば天地一目に覧て居るぞ。神は平等におかげを授けるが受物が悪ければおかげがもるぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ」


 どういう受け物をもってすれば、神様が云うて下さる漏れる事のないおかげを受けられるか、と云う事ですよね。
 ただ一生懸命お参りをした。と云うだけでは受け物は出来ません。
 昨日、福山から電話がかかったそうです。
 鹿児島の方で福山に、ま、商用か何かで御出でられた方で、やはりお道の信心をなさる方でしょうが、その方が福山の信者で熱心に此処へ参って見える方のお導きで、「是非帰り道に合楽にお寄りなさい」。と云われ、福山のその方から何時の汽車で発たれて何時頃そちらに着かれますから、と云う電話があった。
 丁度その時間は、四時半に御祈念を終わらせて頂くのですから、私がここへ奉仕しておる間は間に合わないわけ。
 それで私は、その方の為にこんなものを書いて、此処に置いておった。
 夕べ、いつものように遅く此処に出て参りましたら、まだ誰も久留米の共励会から帰って来とりませんでした。
 それで、一人そこで御祈念しとりました時に、鹿児島の方が見えたかどうか聞きましたら、久留米の共励会に一緒に行かれたと云う事であった。
 だから私も、これを渡せと云うてなかったもんだから、渡してなかったんでしょうけれども、ま、これが今日の御理解になるわけですから皆さん聞いて下さい。
 鹿児島の氏子へ
 真の行が出来れば真のおかげがうけられる。
 真の行とは心行、家業の行、それを可能ならしめる為に天行地行が必要ぢゃ、信心は楽しゅう、嬉しゅう、有難くさせてもらうものぞ。とあります。
 皆さんなんか、毎日毎日この事を聞いておられるから、これが実行出来とらなきゃならんわけだよね。
 あっ、そんなら知っとる、と云う方ばっかりだと思うんです、今私が此処に書いた事。
 どうでしょうかね。
 真の信心をすれば真のおかげが受けられる。
 これはもう絶対なんだ。所がその真の信心と云うのが実は難しいんです。
 様々な信心をしておる人がある。
 一生懸命お参りさえすりゃ良い。もう御用さえすりゃ良い。といったようなね。
 それは嘘ではないけれど、いわゆる本当の忍び処と云うのは、此処に私が鹿児島の御信者の為に書いておりますように、真の行が出来れば真のおかげがうけられる。
 と云う所を焦点に、真のおかげが受けられない。とするならば、どこが真に欠けてるか。
 真の行とは心行とある、家業の行ぞ、とあるね。
 もう皆さん耳にタコの出来る位に聞いとる話でしょう。
 本気で心行に取り組んでおるかどうか。
 本当に家業そのものを行としておるか。
 商売人でいうなら、はあ今日はおかげで大分儲かったと云う時には、はあ、結構なおかげを頂きました。修業さしてもらいました。 けれども反対の時には、今日は一生懸命やったばってん働き損ぢゃった。と云うたような心の状態があるとするなら、行になってないわけです。
 行なんだから儲かるとか、儲からないとかは問題ぢゃないとぢゃもんね。しかも、そげん油売るごたあ行ぢゃでけんもんね。
 本気でその行に取り組ましてもらう。それこそ商品の一つ一つに物を云いかけるような思いでね。
 さ、今日も商品と共に働かせて頂こう。お客さんにいよいよ喜んでもらう信心、商売さしてもらおう。
 これがね皆さん、お客さんに喜んでもらおうとして、お客さんは安うさえすりゃ喜ばれると云うて、損して売らなんと云う事はけっしてないですよね。
 問題はお客さんに喜んで頂くと云う事。
 勿論そりゃ適当な値段がついておりましょうけれども、ま、そこにはね、人が十銭で売る物は八銭で。といったような心配りと、その商品の一つ一つにね、もうそれこそ、ま、呉服屋さんであるならば反物が売れる。売れたら自分の所の娘ば貰うてもらうごたる心持ちで、どうぞ向こうに行っても可愛がられますように。と云う祈りを添えて商いが出来ておるか。
 これは一反売ると幾ら儲かる、とソロバンが弾いてあるのが先ぢゃないかとね。
 娘は嫁ごにやる時に、どうぞ向こうの主人にも親達にも気に入るように。と祈るでしょう。
 そういう祈りが商品の中に果たして込めてあるか。
 卸屋と相対する時には、それこそ養子息子でも貰うような心持ちが要るぞと云われる。
 どうぞ、この養子がここの店をいよいよ繁盛に繁盛となるような良い働きが出来るように。というふうに祈るようにね。
 例えば、商売人が商売に取り組む行と云うのは、それ、そういう内容をもって一日を締め括らせて頂いて、売れようが売れまいが、いうなら今日はちった赤字になったろうと云うような時でも、今日は結構な修行させて頂いたと云う事になるね。
 心行、果たしてそれが出来ておるか。家業の行、果たしてその家業の行が出来ておるかね。
 所がね、その行をいよいよ行たらしめる為にですね。それを可能ならしめる為にね、天行、地行がいる、とあるのですね。
 話を聞けば楽なんですね。
 今申しました事、いうなら楽な事ですけれども、本当に、家業の行が、心行がね、自分の中に絶えず繰り返されて、みやすう楽しゅう、最後にあるように出来なければならない。
 そのみやすう出来させて頂く修行が天行だよ、地行だよ、とあるのですね。
 そこで、いよいよ今度は天行、地行とはどういう事か、と云う事をつまびらかにしてあるのが合楽理念ですね。
 そこからです。楽しもう、それこそ有り難くね。
 愉快にまで高められるような天地との交流も生まれてくる。リズムも生まれて来ると云う。
 いうならば、今日は、この鹿児島の御信者さんに云うてある、信心は楽しゅう、嬉しゅう、有難くさしてもらうものだ。と云う所になって来るんです。
 そういう信心をすれば誰でも真の信心が、おかげが受けられる。勿論お徳も受けられる。と云う事ね。
 だから、これだけの事は、皆さんが日々聞いて下さって、これをもっともっと、あらゆる角度から説かれてあるのですからね。
 これをもう一遍皆さんが、あっ、自分はそこの所が欠けておる、成程真のおかげにならないはずだ。と云うふうに頂いて、聞いて下さい。
 鹿児島の氏子へ。
 真の行が出来れば、真のおかげが受けられる。
 真の行とは、心行、家業の行、それを可能ならしめる為に天行、地行が必要ぢゃ。
 信心は楽しゅう、嬉しゅう、有難く、さしていただくものぞ。
 成程、合楽理念は、簡単です。明瞭です。おかげが確かです。と云うキャッチフレ-ズもそこから生まれて来たと云う事になるのですよ。
 ですから、ここへ取り組まなければ駄目でしょうがね。
 日々、本当に家業の行として取り組まなければいけません、果たして心行が、どのような風に出来ておるかとね。
 今日の御理解、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。とおっしゃる。
 今日の御理解を頂いて下さったら、成程、自分の受け物は粗雑だなあ、と云う事を分からしてもろうてね。
 おかげを頂かしてもらい、そして、みやすう説かして頂いても、いよいよギリギリと云う時には、なかなか日頃の教えがピンと出て来ないような時もあります。
 夕べ、ここの御祈念遅らせてもろうて夜中の十二時でしたでしょうか、寝ませて頂いとったら、ドアを叩きますから誰だろうか、と思うとったら徹美先生だった。
 徹美先生が、「あのう○○さんがお参りになっとられます」。とこういう。
 それなら此処へ来てもらって下さいと云うと、ま、部屋に親子で見えとりましたが、難儀と云うか、もうそれは、非常に複雑なお届けでした。
 本当に、夜中でもお伺いして、お参りでもせねばおれないと云うように、複雑な問題でしたね。
 ですから皆さんの場合でもです。
 今私が申しました、その簡単であって明瞭である。と云う所を日頃頂いておっても、なおかつ、そういう事がありますけれども、そこに、ま、お取次を頂いておかげを受け、または、自分でそれが右、
左と判断が出来るようなおかげを常日頃に頂いておきたいと思うんです。
 昨日、久留米から親子で参って来た御信者さんが、娘さんがもう適齢期で、まあとても素晴らしい娘さんです。
 それで、タイピストの勉強をしたいと云う。
 十幾つか久留米に在るそうですが、その十幾つかをずうっと書いて来て、この内のどれに行ったら良かろうか、と云うお伺いがあった。
 それで私が、これ、と云うて○印を付けてやった。
 そしたら、その後先生に○印付けて頂いた所に行ったら、もう、十三ヶ月も前に止めちゃるげな、どうした事ぢゃろか、とこう云う訳です。
 それで私が、私の体験を、ま、聞いてもろうた。
 もうそれこそ仕事が出けん訳ぢゃない、商売が出けん訳ぢゃないけども、神様があれもいかん、これもいかん、と云うて、ギリギリの時には集金の残ってる所に、その金だけを集金にやらして下さる、
といったような時代が福岡であったです。
 だから、これでは家内や子供の生活にも事欠く事になりますから、
どういう仕事でも良いから神様、どうぞ仕事をさずけて下さい、させて下さい。と云うてお願いさして頂きました。
 もう繰り返し繰り返しお願いさせて頂きました。
 所がこの事に限ってだけは、神様は知らん顔してある。
 けども私があんまりお願いするものだから、そんなら、どこどこ町のどこどこには、こういう所があるから行ってみよ。と頂いた。 その町の名前は忘れましたけども、何々と云う大きな炭団屋さんでした。
 夏の事でしたけれど、建物はもう広いばっかりでした。
 ずうっと奥の方へ入って行きましたら、住居がありましたけど、「冬なら要るばってん、今は皆休業状態です」。と云われた。
 神様が、どこどこ町の何々と云う店に行って働けとおっしゃったから、あっもうてっきり、此処で働かせて頂くばい。と思うて行ったら、そういう状態だった。
 その時に、私はね、どうして神様は、こげな嘘を云いなさるぢゃろか。とは思わなかったです。嘘でも教えられた事が、本当に有難かったです。
 私がやあやあ云うてお願いをするから、どこどこと教えて下さったけども、実は、「まあ一時の辛抱ぢゃ、自分の商売とか、仕事の事は云うな。神の云う通りに、さあ福博の町を右に行け、左に行け、
さあ東公園から西公園へ」。と云うふうに、云われるように歩いておった時代の話をさせて頂いたね。
 だから、あんたげん娘はちゃんともう適齢でもあるけん、それこそ家で花嫁修行しときゃ、それで良かっちゃろがの。わざわざタイピストにならんでも。
 けど、その時にタイピストはいかん、云うたっちゃ、もう行こうごとして、たまらんとぢゃから、また、親も、やりとうてたまらんとぢゃから、神様が十三ヶ月も前に止めとる所に、○印付けて下さった。
 皆さん信心さして頂いてると、そういう事がございますね。
 だから、そういう時にですよ。
 有難い、と云う答えが出てこなければ、神様は、こっちが鈍感なもんだから、こんな手を使って教えなさる。と云うそういう受け止め方が出来ると云う事が日頃の信心です。
 信心さして頂いておると、そういう事があるんです。
 そしていうならば、ま、解りやすう云うならば、親先生にお伺ごうたばってん当たらなかった。とか、その通りにならんぢゃった。とか、いうならば、有難いと反対の心で受けるような事であったり、
神様を疑うような事に頂いたりしたんでは、おかげにならんです。 もう、信じなければおられない事ばっかり続くなら、馬鹿でん信ずるわけです。そうでしょうが。
 どげん考えたっちゃ信じられない。どげん考えたっちゃおかしい。
と云う所にです、有難いと云う答えが出るようなおかげを、常日頃頂いておいての、いうなら今日の鹿児島の御信者に対する、所の、この御理解、そしてこれは、お互いが耳にタコの出来るごと頂いとる御理解ですから、もう一遍改めてですね。
 ここん所に、こんな簡単な事なんですから、しかもこんなに明瞭に、いうならば合楽理念をもって説いてあるのですから、これを身につけなければ、本当のおかげにはならん、と云う事ですよね。
「どうぞ」